おかげさまで、9月1日のデュッセルドルフ・アレクサンダー・テクニーク体験ワークショップは無事に終了いたしました。
初めての試みで、企画、宣伝、当日の内容と、新しい発見だらけでした。当日参加してくれた方のみならず、今まで直接、間接に関わっていただいたすべての方にお礼を申し上げます。
さて、そのワークショップの中で質問を頂きました。
「アレクサンダー・テクニークとは考え方のプロセスを学ぶもの。心と体は分けられない、とのことですが、具体的に、心と体を分けられない、とはどういうことでしょうか?」
これに関して、F.M.アレクサンダーは著書「自分のつかい方」の中で次のように書いています。
例えば、腕をあげるという動作は、一般には即座に「身体的運動」と多くの人々に呼ばれる
ものである。ここでもし、腕をあげようという刺激の受容と腕を実際にあげる行為の間に何
が起こるかを考えるなら、多くの人々が「身体的」と呼ぶ課程に、「精神的」とみなされる
課程が含まれているのだ。
(F.M.アレクサンダー『自分のつかい方』鍬田かおる訳、晩成書房、2010年、50頁)
「何かをしよう」という時(=刺激)に、「身体的」にいつもの方法で自動的に反応するのではなく、その間に「選択」をする余地がある。
刺激に対して自動的に反応することをちょっと待ってみたりその選択肢を増やしたりすることがアレクサンダー・テクニークなのです。
…とお話ししたのですが、
最近偶然読んでいた本に面白いことが書いてありました。いまさらですが(失礼!)昔流行った(これまた失礼!)「脳内革命」です。
近代哲学の祖と言われるR.デカルトが17世紀初頭に心と体を分けてしまった。
体を単なる物質とみなせるようになり、近代医学は目覚ましい発展を遂げることになった
が、その反面、心の領域は教会に預けておくということで、医学は一切関知しなかった。
そのために精神活動の源である脳の研究も遅れてしまったのだ。
普段ちょっと嫌なことがあってカッとしたりすると、血圧の20や30はすぐに上がってしま
う。逆に「まあまあ落ち着きなさい」といって深呼吸を2,3回やらせると、すぐに下がる。
医者ならだれでも知っていることです。にもかかわらず、脳の働きは一応分離して考えると
いうことで、この種の現象はほとんど無視されてきました。
だが脳のメカニズムが明らかになるにつれて、心と体は一体であるということがますます
はっきりしてきました。
脳に関してこれまでわかったことを頼りに大胆な推論をすると、私たちはどうも心と感情を
ごちゃまぜにしてきたようなのです。
つまり左脳で意識した自分の感覚を、私たちは「心」と言っている可能性があるのですが、
これは大いなる錯覚といってよいでしょう。
心とは、「先天的に備わっている英知」と考えます。そうでなければ私たちはそれを人間
共通のものと思えるはずがありません。瞑想などをして脳をある状態に置くとその心が語り
かけてくる。
これが右脳パワーであって、普段私たちが心と呼んでいるもののほとんどは、実は心では
なく感情であるということです。
(春山茂雄『脳内革命②』サンマーク出版、1996、61~65頁)
春山先生の趣旨とは少し異なりますが、この「心と感情をごちゃまぜにしている」という言葉に、はっとしました。
アレクサンダー・テクニークのレッスンの場でも、もっと良い方法があると頭では理解していても、つい習慣的にしている動作をやめられない原因の多くは、「いつもの」慣れた感覚によって「正しくやっていると感じたい」という感情だからです。
心と、体。我々日本人は西洋人に比べたら柔軟にとらえているかな、という程度にしか考えていなかったのですが、体、心、感情…なかなか面白いテーマです。
と、同時に、脳の研究なども進んでいなかった100年近く前にすでに「心と体は一体」を書き記しているアレクサンダーにも驚きです。
2021年4月10日追記
ちょっと何言ってるのかわかりませんね…(笑) 要再考
初めての試みで、企画、宣伝、当日の内容と、新しい発見だらけでした。当日参加してくれた方のみならず、今まで直接、間接に関わっていただいたすべての方にお礼を申し上げます。
さて、そのワークショップの中で質問を頂きました。
「アレクサンダー・テクニークとは考え方のプロセスを学ぶもの。心と体は分けられない、とのことですが、具体的に、心と体を分けられない、とはどういうことでしょうか?」
これに関して、F.M.アレクサンダーは著書「自分のつかい方」の中で次のように書いています。
例えば、腕をあげるという動作は、一般には即座に「身体的運動」と多くの人々に呼ばれる
ものである。ここでもし、腕をあげようという刺激の受容と腕を実際にあげる行為の間に何
が起こるかを考えるなら、多くの人々が「身体的」と呼ぶ課程に、「精神的」とみなされる
課程が含まれているのだ。
(F.M.アレクサンダー『自分のつかい方』鍬田かおる訳、晩成書房、2010年、50頁)
「何かをしよう」という時(=刺激)に、「身体的」にいつもの方法で自動的に反応するのではなく、その間に「選択」をする余地がある。
刺激に対して自動的に反応することをちょっと待ってみたりその選択肢を増やしたりすることがアレクサンダー・テクニークなのです。
…とお話ししたのですが、
最近偶然読んでいた本に面白いことが書いてありました。いまさらですが(失礼!)昔流行った(これまた失礼!)「脳内革命」です。
近代哲学の祖と言われるR.デカルトが17世紀初頭に心と体を分けてしまった。
体を単なる物質とみなせるようになり、近代医学は目覚ましい発展を遂げることになった
が、その反面、心の領域は教会に預けておくということで、医学は一切関知しなかった。
そのために精神活動の源である脳の研究も遅れてしまったのだ。
普段ちょっと嫌なことがあってカッとしたりすると、血圧の20や30はすぐに上がってしま
う。逆に「まあまあ落ち着きなさい」といって深呼吸を2,3回やらせると、すぐに下がる。
医者ならだれでも知っていることです。にもかかわらず、脳の働きは一応分離して考えると
いうことで、この種の現象はほとんど無視されてきました。
だが脳のメカニズムが明らかになるにつれて、心と体は一体であるということがますます
はっきりしてきました。
脳に関してこれまでわかったことを頼りに大胆な推論をすると、私たちはどうも心と感情を
ごちゃまぜにしてきたようなのです。
つまり左脳で意識した自分の感覚を、私たちは「心」と言っている可能性があるのですが、
これは大いなる錯覚といってよいでしょう。
心とは、「先天的に備わっている英知」と考えます。そうでなければ私たちはそれを人間
共通のものと思えるはずがありません。瞑想などをして脳をある状態に置くとその心が語り
かけてくる。
これが右脳パワーであって、普段私たちが心と呼んでいるもののほとんどは、実は心では
なく感情であるということです。
(春山茂雄『脳内革命②』サンマーク出版、1996、61~65頁)
春山先生の趣旨とは少し異なりますが、この「心と感情をごちゃまぜにしている」という言葉に、はっとしました。
アレクサンダー・テクニークのレッスンの場でも、もっと良い方法があると頭では理解していても、つい習慣的にしている動作をやめられない原因の多くは、「いつもの」慣れた感覚によって「正しくやっていると感じたい」という感情だからです。
心と、体。我々日本人は西洋人に比べたら柔軟にとらえているかな、という程度にしか考えていなかったのですが、体、心、感情…なかなか面白いテーマです。
と、同時に、脳の研究なども進んでいなかった100年近く前にすでに「心と体は一体」を書き記しているアレクサンダーにも驚きです。
2021年4月10日追記
ちょっと何言ってるのかわかりませんね…(笑) 要再考
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